氷結の夢 第二話『森の小屋の中で』
いい加減にして欲しいと思った。
ただでさえ、エスティニアンは自らの置かれた状況について行けず混乱の極みだというのに。
その上、槍の穂先で軽くつついた程度でドラゴンが泣き喚くなどされた日には怒りが込み上げようとも許されていいのではないか。
いや、いっその事この仔竜を殺しさっさと自分の状況を検証するのも良いのかもしれない。そんな想いがふつふつと湧いてきた。
しかし、エスティニアンは込み上げる想いとは裏腹に、未だ泣き喚く仔竜に言った。
『泣き喚くなと言ったろう! それでもドラゴン族か! あぁ……うるさい……手当てをしてやるからさっさとついてこい……』
(!? ……いま俺は何と言った? 手当だと? いや……、よしんばそれは良いとしても、どこに連れて行こうというのだ……?)
反射的に己の口から出た言葉に、エスティニアンは更なる混乱へと叩き落とされた。
先程、意識を取り戻した筈のこの身で、確かに見覚えのありそうな景色とはいえ、いったい何処へ向かうというのか。
何から何まで分からない事で埋め尽くされ、状況の判断などどうにもならない。
エスティニアンは呆然とするしか為す術がなかった。
しかし、ふと目にした風景が知らぬ記憶を刺激し、なぜだか森の奥に路が見えた気がした。
気が付けば、エスティニアンは無意識に歩き始めていた。
森のざわめき、小川の流れる音。土の匂いに、獣たちの気配。
初めてのはず。初めてのはずなのに。なのに、どうしてか見覚えがある気がしてならない。
判然とせぬ記憶と格闘している内に、一軒の小屋に辿り着いた。
窓からは明かりが漏れ、どこか良い香りが漂ってきている。
『ここがニンゲンの住んでいるところクポ?』
エスティニアンは苦虫を噛みつぶす想いだった。
明かりのついている小屋なのだ。聞かれた通り、人間が住んでいる小屋で間違いはない。しかし、その質問に対して込み上げる気持ちは、何故か『自分の住んでいる家』という想いなのだ。
『あぁ、そうだ』
まず間違いなく、エスティニアンはこんな森の奥の小屋に居を構えた経験はない。
有るはずがないのだ。
それなのに。
それだというのに。
『戻ったぞ』
木の扉を開け、不意に出た言葉。
そして。
この胸に込み上げる安心感や充足感は一体なんだというのだろう?
『おかえりなさい。おつかれさま。今日の夕飯はクリムゾンスープにしてみたよ』
中から掛けられる声は、優しさに満ちていて。
涙が溢れそうになった。
穏やかな表情をしたイゼルが居る。
込み上げる想いを表に出さぬ様、エスティニアンは必死に不機嫌な振りをした。
『さっき、このモーグリ族とドラゴン族を拾ってな。少し怪我をしてるから手当をしてやってくれ』
イゼルなら深く事情を聞かずとも治療をしてくれるだろう。何故かそんな確信があった。
現に、今もだいぶ表情が緩くなっている。
これなら快く請け負ってくれる事だろう。
『こっ、ここっ、これは、どういうことだ……。こんなに可愛い生き物が我が家に来るとは……』
そう。そうだ。ここは我が家だ。イゼルと二人、ここに住んでいるのだ。
あるはずのない記憶。否定と肯定がない交ぜになり、奇妙な浮遊感すら感じる。
『はっ! そうか、怪我をしているのだったな。早くこちらにきて見せてみなさい』
奇妙な浮遊感の中で眺めるイゼルは、やはりとても幸せそうで。
『これは……。なにかに刺されたようだが……? なにで怪我をしたのだ?』
それなのに。
『そこのニンゲンに刺されたクポ!』
思いがけないモーグリの言葉に、浮遊感なぞ吹き飛んだ。
『この男がこの傷をつくったのか?』
そっとイゼルの方を見る。
『そうクポ!』
さっきまでの幸せそうな表情が一転していた。
マズい。
『待て、誤解だ』
『誤解じゃないくぽ! イタズラで刺したクポ!』
マズいマズいマズい。
『おい! 言い方を考えろ! それじゃ、まるで……』
最後まで言い切る前に殴り飛ばされた。
地面に叩きつけられ、踏みつけにされて、その上、馬乗りになって何度も殴られた。
けれど。
痛み、など。
なにも感じはしなかった。
だって、これは。
ただの『じゃれ合い』。
叩く手に力などなにも入ってはいない。
傷つける意図など何処にもない。
優しい優しいじゃれ合い。
(あぁ……。そうか……)
そうして、
(これは『夢』か……)
エスティニアンは気付いた。
これは、優しい優しい『氷の夢』。
誰がやったのかは分からない。
もしかしたら今際の際の儚い幻想なのかもしれない。
けれど。
それでも。
エスティニアンには、この優しい氷の夢に抗う事などできはしなかった。